浄土真宗本願寺派
Shinshu Honganjiha
「念仏者の生き方」について
2016(平成28)年10月1日、伝灯奉告法要の初日のご親教(ご門主のご法話)として、新たに就任された第25代・大谷光淳(専如)ご門主は「念仏者の生き方」をお示しくださいました。
このご親教はその題名にあるように、私たち念仏者が浄土真宗のみ教えに出遇い、阿弥陀如来の救いにあずかることによって、それまでの私たちの生き方がどのように変えられ、この現実世界でどのように生きていくようになるのかを述べられた大切なご教示です。
仏教は今から約2500年前、釈尊(しゃくそん)がさとりを開いて仏陀(ぶっだ)となられたことに始まります。わが国では、仏教はもともと仏法(ぶっぽう)と呼ばれていました。ここでいう法とは、この世界と私たち人間のありのままの真実ということであり、これは時間と場所を超えた普遍的な真実です。そして、この真実を見抜き、目覚めた人を仏陀といい、私たちに苦悩を超えて生きていく道を教えてくれるのが仏教です。
仏教では、この世界と私たちのありのままの姿を「諸行無常(しょぎょうむじょう)」と「縁起(えんぎ)」という言葉で表します。「諸行無常」とは、この世界のすべての物事は一瞬もとどまることなく移り変わっているということであり、「縁起」とは、その一瞬ごとにすべての物事は、原因や条件が互いに関わりあって存在しているという真実です。したがって、そのような世界のあり方の中には、固定した変化しない私というものは存在しません。
しかし、私たちはこのありのままの真実に気づかず、自分というものを固定した実体と考え、欲望の赴くままに自分にとって損か得か、好きか嫌いかなど、常に自己中心の心で物事を捉えています。その結果、自分の思い通りにならないことで悩み苦しんだり、争いを起こしたりして、苦悩の人生から一歩たりとも自由になれないのです。このように真実に背(そむ)いた自己中心性を仏教では無明煩悩(むみょうぼんのう)といい、この煩悩が私たちを迷いの世界に繋(つな)ぎ止める原因となるのです。なかでも代表的な煩悩は、むさぼり・いかり・おろかさの三つで、これを三毒(さんどく)の煩悩といいます。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)も煩悩を克服し、さとりを得るために比叡山(ひえいざん)で20年にわたりご修行に励まれました。しかし、どれほど修行に励もうとも、自らの力では断ち切れない煩悩の深さを自覚され、ついに比叡山を下り、法然(ほうねん)聖人のお導きによって阿弥陀如来(あみだにょらい)の救いのはたらきに出遇(あ)われました。阿弥陀如来とは、悩み苦しむすべてのものをそのまま救い、さとりの世界へ導こうと願われ、その願い通りにはたらき続けてくださっている仏さまです。この願いを、本願(ほんがん)といいます。我執(がしゅう)、我欲(がよく)の世界に迷い込み、そこから抜け出せない私を、そのままの姿で救うとはたらき続けていてくださる阿弥陀如来のご本願ほど、有り難いお慈悲(じひ)はありません。しかし、今ここでの救いの中にありながらも、そのお慈悲ひとすじにお任せできない、よろこべない私の愚かさ、煩悩の深さに悲嘆(ひたん)せざるをえません。
私たちは阿弥陀如来のご本願を聞かせていただくことで、自分本位にしか生きられない無明の存在であることに気づかされ、できる限り身を慎(つつし)み、言葉を慎んで、少しずつでも煩悩を克服する生き方へとつくり変えられていくのです。それは例えば、自分自身のあり方としては、欲を少なくして足ることを知る「少欲知足(しょうよくちそく)」であり、他者に対しては、穏やかな顔と優しい言葉で接する「和顔愛語(わげんあいご)」という生き方です。たとえ、それらが仏さまの真似事(まねごと)といわれようとも、ありのままの真実に教え導かれて、そのように志して生きる人間に育てられるのです。このことを親鸞聖人は門弟に宛てたお手紙で、「(あなた方は)今、すべての人びとを救おうという阿弥陀如来のご本願のお心をお聞きし、愚かなる無明の酔いも次第にさめ、むさぼり・いかり・おろかさという三つの毒も少しずつ好まぬようになり、阿弥陀仏の薬をつねに好む身となっておられるのです」とお示しになられています。たいへん重いご教示です。
今日、世界にはテロや武力紛争、経済格差、地球温暖化、核物質の拡散、差別を含む人権の抑圧など、世界規模での人類の生存に関わる困難な問題が山積していますが、これらの原因の根本は、ありのままの真実に背いて生きる私たちの無明煩悩にあります。もちろん、私たちはこの命を終える瞬間まで、我欲に執(とら)われた煩悩具足(ぼんのうぐそく)の愚かな存在であり、仏さまのような執われのない完全に清らかな行いはできません。しかし、それでも仏法を依りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯(せいいっぱい)努力させていただく人間になるのです。
国の内外、あらゆる人びとに阿弥陀如来の智慧(ちえ)と慈悲(じひ)を正しく、わかりやすく伝え、そのお心にかなうよう私たち一人ひとりが行動することにより、自他ともに心豊かに生きていくことのできる社会の実現に努めたいと思います。世界の幸せのため、実践運動の推進を通し、ともに確かな歩みを進めてまいりましょう。
2016(平成28)年10月1日
浄土真宗本願寺派門主
大 谷 光 淳
「私たちのちかい」について
2018(平成30)年11月22日、23日、本願寺にて「秋の法要」(全国門徒総追悼法要)が営まれました。23日の法要後、第25世・大谷光淳ご門主はご親教を述べられ、中学生や高校生、大学生をはじめ、仏教や浄土真宗のみ教えにあまり親しみのなかった方々にも、さまざまな機会で唱和してほしいとの願いのもと、2016(平成30)年10月1日の伝灯奉告法要初日に示された『念仏者の生き方』の肝要を四ヵ条にまとめられた『私たちのちかい』をお示しくださいました。
一、自分の殻(から)に
閉じこもることなく
穏(おだ)やかな顔と
優しい言葉を大切にします
微笑(ほほえ)み語りかける
仏さまのように
一、むさぼり、いかり、
おろかさに流されず
しなやかな心と振る舞いを
心がけます
心安らかな仏さまのように
一、自分だけを大事にすることなく
人と喜びや悲しみを
分かち合います
慈悲(じひ)に満ちみちた
仏さまのように
一、生かされていることに気づき
日々に精一杯(せいいっぱい)
つとめます
人びとの救いに尽くす
仏さまのように
この「私たちのちかい」は、特に若い人の宗教離れが盛んに言われております今日、中学生や高校生、大学生をはじめとして、これまで仏教や浄土真宗のみ教えにあまり親しみのなかった方々にも、さまざまな機会で唱和していただきたいと思っております。そして、先人の方々が大切に受け継いでこられた浄土真宗のみ教えを、これからも広く伝えていくことが後に続く私たちの使命であることを心に刻み、お念仏申す道を歩んでまいりましょう。
2018(平成30)年11月23日
浄土真宗本願寺派門主
大 谷 光 淳
「浄土真宗のみ教え」について
2021(令和3)年4月15日、立教開宗記念法要の後に大谷光淳(専如)ご門主はご親教を述べられ、「私たちも(親鸞)聖人の生き方に学び、次の世代の方々にご法義がわかりやすく伝わるよう、ここにその肝要を『浄土真宗のみ教え』として味わいたい」として「浄土真宗のみ教え」をお示しくださいました。
南無阿弥陀仏
「われにまかせよそのまま救う」の弥陀のよび声
私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ
「そのまま救う」が弥陀のよび声
ありがとう といただいて
この愚身をまかす このままで
救い取られる 自然の浄土
仏恩報謝のお念仏
み教えを依りどころに生る者となり
少しずつ 執われの心を 離れます
生されていることに 感謝して
むさぼり いかりに 流されず
穏やかな顔と 優しい言葉
喜びも 悲しみも 分かち合い
日々に 精一杯 つとめます
来る2023(令和5)年には親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要をお迎えいたします。聖人が御誕生され、浄土真宗のみ教えを私たちに説き示してくださったことに感謝して、この「浄土真宗のみ教え」を共に唱和し、共につとめ、み教えが広く伝わるようお念仏申す人生を歩ませていただきましょう。なお、2018(平成30)年の秋の法要(全国門徒総追悼法要)の親教において述べました「私たちのちかい」は、中学生や高校生、大学生をはじめとして、これまで仏教や浄土真宗にあまり親しみのなかった方々にも、さまざまな機会で引き続き唱和していただき、み教えにつながっていくご縁にしていただきたいと願っております。
2021(令和3)年4月15日
浄土真宗本願寺派門主
大 谷 光 淳